2014-12-24
2014-12-24
ソーシャルフットボール事業を始めた背景にあったのは、東日本大震災の復興支援の現場でサッカーの可能性を目の当たりにしたこと、そして、その数ヵ月後に、中高生の頃から憧れていた松田直樹選手が若くして亡くなったという事実でした。
東日本大震災の復興支援では、HITOTOWAでもCSR事業として復興支援に取り組んでいましたが、やはり全体の問題の大きさに対しては圧倒的な無力さを感じていて。そんななか、3月29日に行われたJリーグのチャリティマッチ。日本代表対Jリーグ選抜。これが、試合としてとても面白かった。
当時はまだ余震も続いていて、日本社会全体が不安に包まれていたときです。そこへカズさん(三浦知良選手)がゴールを決めて、渾身のカズダンス。カズ世代としてはもう本当に感動して、涙が流れました。何より、サッカーを通じてたくさんの笑顔と、たくさんのお金が被災地にあふれるという様子をみて、心から感動したんですね。
2010年末に開催したホームレスサッカーと企業チームとの交流戦。
僕自身サッカーは幼稚園からずっとやっていましたが、それまで、サッカーといえば「見る」「する」ものでした。でも震災を通して「社会課題を解決するビジネスとしてのサッカー」というものに、興味がわいたんです。何よりCSR/CSVとしてのサッカーというものの価値を目の当たりにして、いつか事業にできたらいいなと思うようになりました。
それに、ヨーロッパや南米では、街の誇りとしてサッカーチームをあげる人がものすごく多いんです。言い換えれば、サッカーがネイバーフッドデザインの根幹になっているんですよね。
CSRを通じてサッカーをやりたいし、ネイバーフッドデザインの集大成としてサッカーをやりたい。頭のなかで、自然とそんな絵を描くようになりました。
Jリーグクラブ・横浜FC主催の福島市におけるJリーグ公式戦とサッカー教室をサポート。
そしてもうひとつの大きな背景が、松田直樹さんという選手が亡くなったこと。僕より3歳上の選手で、2011年の8月、練習中に突然倒れ、34歳という若さでこの世を去りました。松田選手は中高生時代から憧れていた選手のひとりで、これが本当に悲しくて、大きなショックを受けました。
そのときに、自分の好きなサッカーというものをもっとリスペクトしよう、もっと好きなものに素直になろう、と思ったんです。「社会課題を解決するビジネスとしてのサッカー」をいつか形にできればと漠然と思っていたけれど、じゃあ今から形にしていこう、と準備を始めました。
翌年の9月には福島で横浜FCのチャリティマッチをお手伝いすることになり、そこから少しずつ、ソーシャルフットボール事業が動き出したんです。
元日本代表主将・加藤久さんをリーダーに、陸前高田市にてクラブハウスづくりを行った。
それ以降も、コスモスモアのCSRとして陸前高田スポーツグラウンドづくりに関わり、2014年には、そのグラウンドへ隣接するクラブハウス建設のプロジェクトを手伝い、資金集めや企業、プロボノのマッチングを担当しました。
また震災に限らず、サッカー・フットサルを通じて社会貢献事業を行うユニットとして”social football COLO”を立ち上げ、参加費が100%寄付になる”COLO CUP”や住宅系企業による”SMILE CUP”といったチャリティフットサル大会をはじめ、さまざまなプロジェクトを行っています。
陸前高田市における地元のチームに参加したときの様子。早稲田大学ア式蹴球部相手に見事1ゴールを決めた。
最近ちょっと見えてきた40代の夢は、「温泉街のネイバーフッドデザインを、地域のサッカークラブの経営をしながらやっている」という自分の姿。温泉も好きなんですよね(笑)。個人的な夢でもあるんですが、一方で、それが実現できてしまうくらい、ソーシャルフットボールのメソッドも確立していきたいと考えています。
その夢に向かって、防災減災研修を行うCommunity Crossing Japanプロジェクトとサッカーを組み合わせ、サッカーを通じた防災ワークショップを行うなど、新しいチャレンジもスタートしています。
今温めているさまざまな種が、本格的なワークショップや研修として展開できるようになれば、夢の実現もグッと近づきます。そのイメージを常に描きながら、3つの事業の発展と連携をしっかりと進めていきたいですね。
HITOTOWAの声